山あり人あり人生あり

日々の出来事、登山についてのBlogです。

今週の山

 この週末は、草津白根山と谷川へ登ってきた。白根はロープウェイを使って登りをパスするというお気軽ハイク。翌日の谷川は三国峠から白毛門まで縦走。

 

ようやく登った、草津白根山(でもロープウェイ利用) / 2016年6月18日

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●と---、35年の時を経て完結 / 谷川縦走 / 2016年6月19日

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今日の涙

 平日はほぼ毎日30分ほど、ジョグ&ウォークで体を動かしている。今朝、支所のあたりでヨタヨタ歩いている柴ワンコを見かけ、飼い主の女性にワンコの歳を聞いてみると16歳、前足が痛むようだった。昨年死んだ飼い犬の"ぽち"より若干小さいが、尻尾のあたりと顔つきがかなりそっくりで、歳を取ってきたあの感じがとてもいとおしく感じられて、思わずサングラスの下に涙してしまった。"ぽち"が死んでから半年を過ぎているが、いまだ何かの拍子にこんな状態になることがある。

山を続ける理由(No.3 目指すべきもの)

<見えてきたもの>

 山梨へ転居したおかげで、山への移動がぐっと楽になった。犬を飼っていたため日帰りしかできないが、体力アップを兼ねて頻繁に登山するようになった。当面の目的を「南アルプスの鋸岳から甲斐駒ケ岳の日帰り縦走」とした。鋸はずっと気になっていた山だったし、甲斐駒はバリエーションを始めた頃に自分を育ててくれた山と思っていた。体力の劣る自分がこのコースを日帰りでこなせれば、自己満足できると。自分の意志の弱さもあって、実行できたのはヒザの手術から5年ほど後の2015年秋。このころにはだいぶ体力もついて、長距離を楽しんで歩けるようになっていた。若かった頃、気持ちの良い山道を思わず駈け出して縦走した時の気分を思い起こしていた。50を前にして自分の体力の限界を上げていこうと思うようになった理由に、故人NZK氏の存在がある。ちょうど自分がその年齢となり、氏の感じていたことの一部でも分かってきたように思っていた。

 

<目指すべきもの>

 この先、どんな山を続けていこうか。自分の好きな事、得意なことを伸ばして行こう。今見えているのは次のようなイメージ。

1. クライミングを織り交ぜた、オリジナリティーのある山歩き。
2. 読図が必要な山であればなお良し。
3. 体力面での努力を怠らず、スピード、距離の向上。ただし競技はやらない(人との競争には関心が無い)。自分なりの頂点(常に変わる、向上する)を目指す。
4. 上記1. を成り立たせるためにフリークライミング技術の向上(低下の防止程度か)。

 歳とるにつれ、負荷への耐性が低下していることを感じる。トレーニングも無理しすぎると故障をたやすく誘発するし、切れそうな細いラインをいかに狙っていけるか、そんなイメージを持っている。最近ではそんなことを考えているせいか、自分の体が若かった頃より良く見えてきた気がする。

山を続ける理由(No.2 自分の存在を感じさせてくれるもの)

<フリークライミング>

 フリークライミングに傾倒するようになり、これまで漠然と登山を続けてきた意識が変わった。上達したい気持ちが強くなり、海外のクライミング技術書を読みあさった。日本ではまだそれほどフリークライミング技術が詳しく解説された書籍は無かった。クライミングの上手い人から教えてもらうのが早いことは分かっていたが、自分の性格から、結局独学といった感じで超スローペースでクライミングが上手くなっていったと思っている。人一倍、上手くなるのに時間がかかったという、自慢にもならない話だ。
 クライミングが面白いのは、その爽快さもあるが努力したことがはっきり反映され結果が出ること。生まれてこの方、ひとつのことにここまで集中して努力してきたことが無かったように思う。努力と結果の結びつきに喜びを感じ、自分という存在をあらためて認識するようになった。こんな期間が20代後半から40歳頃まで続いた。

 散々通った甲府幕岩のルートはすべて登りつくし(ルートでないクラックまでも)、ずっと気になっていたラインを自ら設定初登したあたりで、フリークライミングでの自分なりの高難度を目指す志向が変わっていった。15年ほどの間のクライミング集中期間は楽しかったが、それ以外のことはやってこなかった訳で、東京から山梨へ移住したと同時期に、もう一度自分の目指す方向性を考えてみるようになった。

 

<過渡期>

 自分の登山思考はどちらかと言えばマイナーな山を志向していて、高校時代の西上州通いがそれを象徴している。北アルプスなどの山が嫌いなわけではないのだが、人ごみの中に出かけていくことが煩わしい。行ってみたいところは多いが、何をするにつけて、人に気づかいをしなければならないので。

 子供のころに抱いていた運動に関する劣等感は根底にあるのだと思う。人と同じことをやってもたいした結果にはならず自己満足は得られない気がする。ならば人と違う方向性で進んでみよう。登山思考も都合が良い。そんな頃、左ひざの半月板の具合が悪くなり、手術。体力も落ち、クライミングも遠ざかって下手になる。もう一度、この先を考える。

 そんな頃、高校山岳部以来の友人が富士登山競走を毎年出場し頑張っていた。自分ももうすぐ終わってしまう40代に何らか満足できる結果を求めたいと思うようになった。競技ごとが嫌いな私なので、トレイルランなどの競技に出場する気はない。運動不足、加齢から落ちた基礎体力を作り直して、山歩きを出直してみることにした。

山を続ける理由(No.1 登山のきっかけ)

 今でこそ登山はかなりポピュラーな"レクリエーション"となってきた感もあるが、私が子供のころは、特に雪山や岩登りという分野においては危険が付きまとうことから、私の周囲の環境では「やってはいけないこと、できるだけ避けるべきこと」といった雰囲気であった。

 小学生の頃は、特に短距離走はいつもビリ、運動会は嫌いだった。特別運動が嫌いな訳ではなかったが走ることに関しては劣等感があった。また山や海といった自然を感じやすい場所へ出かけることが好きだった。

 中学生の頃は、多くの友人が部活動に所属したのに対し、興味ある活動もなく運動部は練習が厳しいという噂から、運動が苦手な部類の私には向いていないと思い、部活動に所属することはなかった。部活をやっているクラスメートから、私と同類の友人とともに良く「帰宅部」と揶揄されたものだ。この頃に群馬に住んでいた叔父が尾瀬谷川岳のハイキングに連れて行ってくれて、こうした場所が好きな自分にとって、より山へ対する親近感が涌いていった。このイメージが山を目指す一つのきっかけになったのだと思う。
 また極端な読書嫌いで、感想文を書くなど全く嫌いな子供であったが、山への関心から新田次郎氏の「栄光の岩壁」という書籍を読んだことがきっかけで、読書への抵抗感を払拭、より山というものへ関心が移っていった。山の書籍を読みあさった。山と渓谷という雑誌を目にして北アルプスの岩壁をクライマーが登っている写真を見て、いつか自分も雪山や岩登りをやってみたいと思うようになっていた。こうしたことがバリエーションに興味を持つきっかけとなったのだと思う。

 高校に入って、やはり部活動に所属すべきかどうか迷っていた。山岳部はあったのだが、運動がそれほど得意でない自分に厳しい練習についていけるかどうか自信がなかった。入学から遅れることふた月。6月になって思い切って山岳部の門を叩いた。練習についていくことは厳しかった。ランニングはまだしも、キスリングザックに砂を目いっぱい詰め込み、学校裏の標高差30mほど裏山を何往復もボッカトレするのは地獄だった。いまでも重い荷を担いで何日も山を泊まり歩くのは得意な方ではない。今は悩みの種である膝に影響を与えたのも、この頃だったのかもしれない。
 入部する数年前に、同山岳部は春山で事故を起こしており、岩登りも雪山も禁止状態だった。自分がやってみたい目標は岩雪であったのでいろいろ葛藤があったのを覚えている。正月の奥秩父全山縦走計画が何故かばれて、学校から親を通して注意されたこともあった。悔し泣きした。
 読図をしながら山を歩くことは好きで、特に西上州は大好きで良く歩いた。

 大学へ進学、学校に所属するワンゲルへの入部も考えたが、岩雪メインの山を志向すべく、社会人山岳会を選んだ。これまでの人生は学校関係の狭い人間の輪の中だけだったことがはっきり感じられ、いろいろな生き方があるのだという事を認識するようになっていった。山岳会では丁寧に教えてもらうようなシステムではなく、見て覚えろ形式ではあったものの、何とかクライミングの基本的なものはマスターし、次第に自分なりの山というものが確立していった頃だった思う。
 今風な表現で"アルパイン"と称されるような山をやっていたが、それほど大した所には登っていない。谷川や穂高のメジャールートを人並みレベルで楽しむ程度だった。

 大学卒業後に就職、しばらくはハイキング程度の登山を程ほどに行う程度でだった。会社の別部署でフリークライミングに興味を持つ同期と知り合ったきっかけで、再びクライミングを楽しむようになった。フレックス勤務を利用して、丹沢広沢寺で良くトレーニングしたのもだ。お互いにクライミング能力は従来の本チャンクライミングがベースとなっていて、墜落を許容するフリークライミングには全く歯が立たなかった。当時唯一のクライミングジムであった入間のTウォールで、100度くらいの被り壁5.9を登るのが精いっぱいだった頃だ。

 「No.2 自分の存在を感じさせてくれるもの」へ続く。

最近の活動状況メモ

ここ最近の活動状況、全てヤマレコ。

美濃戸南沢から赤岳、阿弥陀から御小屋尾根を下山 / 2016年6月11日http://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-896527.html 

手鳥川南沢から瑞牆山 / 2016年6月12日http://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-896546.html

午後から甲府幕岩 / 2016年6月12日
http://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-896550.html

どこの世界にもバカは居る

 今年のGWは、不安定な天候で北アルプスを筆頭に遭難が相次いだ。私が利用させてもらっている「ヤマレコ」という山行記録を集約してくれるサイトを見ていて、危なっかしい登山者が多いことと思っていたが、今回の遭難レベルを見るにつけ、あくまで私の推測だがこうした登山者の増加が影響しているように思える。

 同ヤマレコで、東北地方に住んでいらっしゃる方の日記において、危険な(悪い言葉で言えば、おバカな)山行記録を指摘されている。かなりの実力をお持ちの方のようだが、そうした方の目に余る行動だったようだ。私もその記録を読んだが、ちょっと考えさせられる山行内容だった。

 山の実力は人それぞれ、個人を尊重してとやかく言うべきものではないという考えもあるが、自然相手の中で考えうる悪い状況が発生した場合に、そうした行動をしている登山者がどうなるのかは容易に想像がつく。山(自然)への軽視を行ったことへの社会的非難は免れないだろう。

 そんなことを思っても、このブログに残すことまではしなかったのだが、今日ヤマレコの記録を見ていると、再び馬鹿者と呼びたくなるような輩が出ていたので、ここに今の考えを書き綴った。

 その馬鹿者、親子で西穂から奥穂を縦走し日帰りで新穂高へ周回するという山行。親は若いころそれなりに山の経験を積まれた様子。息子もそれなりに経験を積んできているのだろう。驚いたのは息子がサンダル履きで奥穂まで行動していたことだ。クライミングが上手ければ確かに歩き通せるかもしれないが、浮石がゴロゴロしている道をよくぞ足指に怪我なく奥穂まで辿りついたものだ。運が良かったね。記録を掲載している親にも呆れる。あえてサンダル履きで歩いていることを写真を掲載して誇張しているのだから。やはり親子ともどもバカとしか言いようがない。

 一ノ倉のテールリッジあたりのスラブをサンダル履きならまだしも、浮石だらけのあの縦走路をサンダルで歩き通すなんて、本当に開いた口がふさがりませんわ。