山あり人あり人生あり

日々の出来事、登山についてのBlogです。

山を続ける理由(No.1 登山のきっかけ)

 今でこそ登山はかなりポピュラーな"レクリエーション"となってきた感もあるが、私が子供のころは、特に雪山や岩登りという分野においては危険が付きまとうことから、私の周囲の環境では「やってはいけないこと、できるだけ避けるべきこと」といった雰囲気であった。

 小学生の頃は、特に短距離走はいつもビリ、運動会は嫌いだった。特別運動が嫌いな訳ではなかったが走ることに関しては劣等感があった。また山や海といった自然を感じやすい場所へ出かけることが好きだった。

 中学生の頃は、多くの友人が部活動に所属したのに対し、興味ある活動もなく運動部は練習が厳しいという噂から、運動が苦手な部類の私には向いていないと思い、部活動に所属することはなかった。部活をやっているクラスメートから、私と同類の友人とともに良く「帰宅部」と揶揄されたものだ。この頃に群馬に住んでいた叔父が尾瀬谷川岳のハイキングに連れて行ってくれて、こうした場所が好きな自分にとって、より山へ対する親近感が涌いていった。このイメージが山を目指す一つのきっかけになったのだと思う。
 また極端な読書嫌いで、感想文を書くなど全く嫌いな子供であったが、山への関心から新田次郎氏の「栄光の岩壁」という書籍を読んだことがきっかけで、読書への抵抗感を払拭、より山というものへ関心が移っていった。山の書籍を読みあさった。山と渓谷という雑誌を目にして北アルプスの岩壁をクライマーが登っている写真を見て、いつか自分も雪山や岩登りをやってみたいと思うようになっていた。こうしたことがバリエーションに興味を持つきっかけとなったのだと思う。

 高校に入って、やはり部活動に所属すべきかどうか迷っていた。山岳部はあったのだが、運動がそれほど得意でない自分に厳しい練習についていけるかどうか自信がなかった。入学から遅れることふた月。6月になって思い切って山岳部の門を叩いた。練習についていくことは厳しかった。ランニングはまだしも、キスリングザックに砂を目いっぱい詰め込み、学校裏の標高差30mほど裏山を何往復もボッカトレするのは地獄だった。いまでも重い荷を担いで何日も山を泊まり歩くのは得意な方ではない。今は悩みの種である膝に影響を与えたのも、この頃だったのかもしれない。
 入部する数年前に、同山岳部は春山で事故を起こしており、岩登りも雪山も禁止状態だった。自分がやってみたい目標は岩雪であったのでいろいろ葛藤があったのを覚えている。正月の奥秩父全山縦走計画が何故かばれて、学校から親を通して注意されたこともあった。悔し泣きした。
 読図をしながら山を歩くことは好きで、特に西上州は大好きで良く歩いた。

 大学へ進学、学校に所属するワンゲルへの入部も考えたが、岩雪メインの山を志向すべく、社会人山岳会を選んだ。これまでの人生は学校関係の狭い人間の輪の中だけだったことがはっきり感じられ、いろいろな生き方があるのだという事を認識するようになっていった。山岳会では丁寧に教えてもらうようなシステムではなく、見て覚えろ形式ではあったものの、何とかクライミングの基本的なものはマスターし、次第に自分なりの山というものが確立していった頃だった思う。
 今風な表現で"アルパイン"と称されるような山をやっていたが、それほど大した所には登っていない。谷川や穂高のメジャールートを人並みレベルで楽しむ程度だった。

 大学卒業後に就職、しばらくはハイキング程度の登山を程ほどに行う程度でだった。会社の別部署でフリークライミングに興味を持つ同期と知り合ったきっかけで、再びクライミングを楽しむようになった。フレックス勤務を利用して、丹沢広沢寺で良くトレーニングしたのもだ。お互いにクライミング能力は従来の本チャンクライミングがベースとなっていて、墜落を許容するフリークライミングには全く歯が立たなかった。当時唯一のクライミングジムであった入間のTウォールで、100度くらいの被り壁5.9を登るのが精いっぱいだった頃だ。

 「No.2 自分の存在を感じさせてくれるもの」へ続く。